　私、村田ヒカルは学校が終わるとまっすぐ家に帰宅し、ランドセルを玄関先に半ば投げるように置き、制服のまま家を出た。木曜日は６時間授業ということもあり、帰宅時間がいつもより遅い。

　私は月曜日と木曜日の週に２日、そろばん教室に通っている。おばあちゃん子だったこともあり、祖母の家に行く事が多く、祖母の家にあったそろばんを触って遊んでいたところをたまたま見られ、「ヒカルちゃんはそろばんが好きだねえ」と祖母に言われたことがきっかけで通うことになった。もう三年くらい前の話だけれど。正直なところ、特にそろばんが好きというわけではなかったが、祖母にそう言われたときに断ることができなかったというのが正直な話。

　家からそろばん教室までは歩いて大体二十分くらいの距離。家を出て一度大通りに出てから路地に入るルートだ。私の住むＮ県Ｓ市は人口５万人ほどの小さな市で昔からの言い伝えで、昔は都を追われた色々な身分の人たちがこの場所に集まった歴史があるらしい。だからどうということもないし、それにちなんだ町おこしがあるわけでもない。特にそれを語り継ぐ人もいなければ、郷土史にその記載があるわけでもない。私自身、その話を知ったのも祖母との会話の中で少し出てきた程度で、正直気にも留めていなかった。

　思わず独り言が出るほどの暑い日だった。

　そろばん教室が始まるのは夕方５時。学校が終わって家を出るのが大体４時半くらいなので、時間的に余裕はない。しかも８月は夕方突然土砂降りに見舞われることもあり、そうなると私のやる気もどんどん下がっていき、めそめそしながら教室に行く事もあった。

　―この時期は夕立が来るから、教室に着替えを置いときなさい。―

　お母さんがそう言ってからそろばん教室に着替えを置くようにしている。まあ実際は、折り畳み傘を持ち歩いているから着替えたことはないけれど。

　駄菓子屋の角を曲がった先にそろばん教室はある。駄菓子屋には私の通う小学校の友達がよくたむろしていて、今日もいつものメンバーがいた。

　「おう！ヒカル！今から、そろばんか？」

　クラスメイトの日高たけしが私に声をかける。たけしは学校では私の真横の席で、消しカ

スを丸めて私に投げつけて来る。わたしが「やめて」と言うともっと調子に乗って投げてくることが分かったし、なんだかじゃれあっているみたいで一度クラスで噂になったことがある。

　「そうだよー。ほんとは行きたくないんだけどね。たけし、ジュース奢ってよ。」

　普段たけしの消しカス攻撃を食らっているのだ。このくらい、奢られたって悪くない。

　「やだよ！つーか、金ねーし。」

　たけしはいたずらっぽく笑い私に言った。

　「あたし喉カラカラ、、、。たけしぃー。」

　「だーかーらー。マジで金ないんだって！てかヒカル、時間大丈夫？」

　私はお母さんが買ってくれた時計(薄いピンクがお気に入り)に目を落とし、「あ！」っと一言、小走りでそろばん教室に向かった。

　そろばん教室の先生は一言でいうとおじいちゃん。もともとは隣町(私の市よりずっと人口が多い)で教室をやっていたらしいけど、数年前に自宅でのそろばん教室になったとのこと。私が通い始めたときはもうすでにこの場所だったから、特に関係はないのだけれど。

　「ヒカルちゃん、これお母さんに渡してね。」

　そろばん教室が終わり、帰ろうとする私に、先生が月謝袋を渡しながら話しかけた。

　そろばん教室の先生は学校の先生とは違うので、私は友達みたいな口調で話している。というより、通い始めたときはあんまり敬語とかも分からなかったし、敬語が分かるようになってからも敬語に切り替えるタイミングが分からないでいた。

　教室を出るとあたりは薄暗い。昼間カンカン照りだった太陽はもう見えなくなっているが、それでも昼間の暑さがアスファルトから上がってくるのが分かる。

　私は家に向かって歩き始めた。夕方まで子供たちがたむろしていた駄菓子屋はもう電気が消えていて、もちろんみんな帰っているから来るときと帰るときとではまるで別な世界にいるような気さえする。

駄菓子屋の角を曲がったところで私は「は！」と思い出したことがあった。そろばん教室の先生に「来週は家族の都合で休む」ということを伝えとくように、お母さんに伝言を受けていたのだった。

　私の通うそろばん教室は私たち小学生チームが帰った後に中・高生の人たちが入れ替わりで授業を受けることになっている。私は小走りでそろばん教室に駆け戻った。

　教室はガラス張りのスライドタイプの入り口で、そろばんの授業中は外から中が見えるつくりになっている。中ではもうすでに中・高生の授業が始まっていた。

　―今のタイミングじゃ入れないな、、、。明日にでもお母さんから電話してもらおう。―

　そう思って帰ろうとしたときに私は違和感を覚えた。教室の一番後ろで座ってそろばんをはじいているのって、、、。え、、、。

　そこには私が雨の時に万が一着替えなくてはいけない時の為に預けておいた服を着た女の子が座っていた。周りの中・高生と比べても明らかに一回り小さい女の子だ。その特徴を加味しなくてもわかる。そこに座っているのは、わたしだ。

　私は怖くてその場から動けなかった。うまく息が吸えない。頭が混乱して、くらくらするのが分かる。

―え、でも、そんなこと、ある？―

頭が追い付かないとはまさにこのことだ。本当に恐怖を覚えたときの人間というのは、こうも情けないものなのだということを痛感する。背中に冷たいものが走るのを感じた。

その時、ドア越しに私を見つけた先生と目が合った。

先生は少し驚いた様子で私の方へ近づいてくる。

「ヒカルちゃん、どうしたんだい？もう授業は終わったから、帰っていいんだぞ？ははは。」先生は冗談交じりに言うとさらに続ける。

「おーい。ヒカルちゃん、聞いてるかい？」

聞こえてはいる。聞こえてはいるのだけれど、何とも体が動かない。あれ？今まで私、どうやってしゃべっていたっけ？うまく言葉が出ない。目の前には、そろばんをはじくわたし。意識が遠のいてくのが分かる。先生が私に話しかけている声が少しずつ遠くなっていき、目の前が真っ暗になっていく。

その言葉を聞いたのを最後に、私はその場に倒れこんでしまった。

「わたし」　私、村田ヒカルは学校が終わるとまっすぐ家に帰宅し、ランドセルを玄関先に半ば投げるように置き、制服のまま家を出た。木曜日は６時間授業ということもあり、帰宅時間がいつもより遅い。　私は月曜日と木曜日の週に２日、そろばん教室に通っている。おばあちゃん子だったこともあり、祖母の家に行く事が多く、祖母の家にあったそろばんを触って遊んでいたところをたまたま見られ、「ヒカルちゃんはそろばんが好きだねえ」と祖母に言われたことがきっかけで通うことになった。もう三年くらい前の話だけれど。正直なところ、特にそろばんが好きというわけではなかったが、祖母にそう言われたときに断ることができなかったというのが正直な話。　家からそろばん教室までは歩いて大体二十分くらいの距離。家を出て一度大通りに出てから路地に入るルートだ。私の住むＮ県Ｓ市は人口５万人ほどの小さな市で昔からの言い伝えで、昔は都を追われた色々な身分の人たちがこの場所に集まった歴史があるらしい。だからどうということもないし、それにちなんだ町おこしがあるわけでもない。特にそれを語り継ぐ人もいなければ、郷土史にその記載があるわけでもない。私自身、その話を知ったのも祖母との会話の中で少し出てきた程度で、正直気にも留めていなかった。　「しかし、暑いな。」　思わず独り言が出るほどの暑い日だった。　そろばん教室が始まるのは夕方５時。学校が終わって家を出るのが大体４時半くらいなので、時間的に余裕はない。しかも８月は夕方突然土砂降りに見舞われることもあり、そうなると私のやる気もどんどん下がっていき、めそめそしながら教室に行く事もあった。　―この時期は夕立が来るから、教室に着替えを置いときなさい。―　お母さんがそう言ってからそろばん教室に着替えを置くようにしている。まあ実際は、折り畳み傘を持ち歩いているから着替えたことはないけれど。　駄菓子屋の角を曲がった先にそろばん教室はある。駄菓子屋には私の通う小学校の友達がよくたむろしていて、今日もいつものメンバーがいた。　「おう！ヒカル！今から、そろばんか？」　クラスメイトの日高たけしが私に声をかける。たけしは学校では私の真横の席で、消しカスを丸めて私に投げつけて来る。わたしが「やめて」と言うともっと調子に乗って投げてくることが分かったし、なんだかじゃれあっているみたいで一度クラスで噂になったことがある。　「そうだよー。ほんとは行きたくないんだけどね。たけし、ジュース奢ってよ。」　普段たけしの消しカス攻撃を食らっているのだ。このくらい、奢られたって悪くない。　「やだよ！つーか、金ねーし。」　たけしはいたずらっぽく笑い私に言った。　「あたし喉カラカラ、、、。たけしぃー。」　私がすかさず続ける。　「だーかーらー。マジで金ないんだって！てかヒカル、時間大丈夫？」　私はお母さんが買ってくれた時計(薄いピンクがお気に入り)に目を落とし、「あ！」っと一言、小走りでそろばん教室に向かった。　そろばん教室の先生は一言でいうとおじいちゃん。もともとは隣町(私の市よりずっと人口が多い)で教室をやっていたらしいけど、数年前に自宅でのそろばん教室になったとのこと。私が通い始めたときはもうすでにこの場所だったから、特に関係はないのだけれど。　「ヒカルちゃん、これお母さんに渡してね。」　そろばん教室が終わり、帰ろうとする私に、先生が月謝袋を渡しながら話しかけた。　「うん、先生また来週！」　そろばん教室の先生は学校の先生とは違うので、私は友達みたいな口調で話している。というより、通い始めたときはあんまり敬語とかも分からなかったし、敬語が分かるようになってからも敬語に切り替えるタイミングが分からないでいた。　教室を出るとあたりは薄暗い。昼間カンカン照りだった太陽はもう見えなくなっているが、それでも昼間の暑さがアスファルトから上がってくるのが分かる。　私は家に向かって歩き始めた。夕方まで子供たちがたむろしていた駄菓子屋はもう電気が消えていて、もちろんみんな帰っているから来るときと帰るときとではまるで別な世界にいるような気さえする。駄菓子屋の角を曲がったところで私は「は！」と思い出したことがあった。そろばん教室の先生に「来週は家族の都合で休む」ということを伝えとくように、お母さんに伝言を受けていたのだった。　私の通うそろばん教室は私たち小学生チームが帰った後に中・高生の人たちが入れ替わりで授業を受けることになっている。私は小走りでそろばん教室に駆け戻った。　教室はガラス張りのスライドタイプの入り口で、そろばんの授業中は外から中が見えるつくりになっている。中ではもうすでに中・高生の授業が始まっていた。　―今のタイミングじゃ入れないな、、、。明日にでもお母さんから電話してもらおう。―　そう思って帰ろうとしたときに私は違和感を覚えた。教室の一番後ろで座ってそろばんをはじいているのって、、、。え、、、。　そこには私が雨の時に万が一着替えなくてはいけない時の為に預けておいた服を着た女の子が座っていた。周りの中・高生と比べても明らかに一回り小さい女の子だ。その特徴を加味しなくてもわかる。そこに座っているのは、わたしだ。　私は怖くてその場から動けなかった。うまく息が吸えない。頭が混乱して、くらくらするのが分かる。―え、でも、そんなこと、ある？―頭が追い付かないとはまさにこのことだ。本当に恐怖を覚えたときの人間というのは、こうも情けないものなのだということを痛感する。背中に冷たいものが走るのを感じた。その時、ドア越しに私を見つけた先生と目が合った。先生は少し驚いた様子で私の方へ近づいてくる。「ヒカルちゃん、どうしたんだい？もう授業は終わったから、帰っていいんだぞ？ははは。」先生は冗談交じりに言うとさらに続ける。「おーい。ヒカルちゃん、聞いてるかい？」聞こえてはいる。聞こえてはいるのだけれど、何とも体が動かない。あれ？今まで私、どうやってしゃべっていたっけ？うまく言葉が出ない。目の前には、そろばんをはじくわたし。意識が遠のいてくのが分かる。先生が私に話しかけている声が少しずつ遠くなっていき、目の前が真っ暗になっていく。「おい！ヒカルちゃん！」その言葉を聞いたのを最後に、私はその場に倒れこんでしまった。

怪談会そろばん百物語【わたし】物語二（前編）

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